| ■奄美群島・市町村概況 |
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| 1.奄美略史 ★参考資料★
平成11年度 鹿児島県大島支庁発行 奄美群島の概況より (1)藩政時代までの政治の大要 奄美史の時代区分は原始から8・9世紀ごろまでを「奄美世(あまんゆ)」とよび、階級社会以前の部落共同体(マキヨ)の時代である。つづいて按司(あじ)という首長たちの支支配割拠する階級社会にさしかかるがこれを「按司世(あじゆ)」と称している。これにつづく琉球王朝時代が「那覇世(なはゆ)」であり藩政時代を「大和世(やまとゆ)」とよびならわしている。 大島は1440年前後、喜界島は1464年、徳之島以南はそれ以前に琉球王朝の支配下に入った。行政区画としては、大島7間切、喜界島5間切、徳之島3間切というふうに分けられ、各間切はまた郡(こおり)にわかれ、郡の下に各村があった。いわゆる間切制度である。さつま藩時代になると、元禄以後各間切は原則として二つの方に分けられ、その下が村というようになった。 慶長14年(1609)、島津藩の征縄役の結果、大島諸島は琉球から分割されて薩藩に直属することになり、慶長18年(1613)こ代官を大島こ置き明治4年(1871)の廃藩置県に至るまで約260年間封建政治が続いた。この間、元禄以後は砂糖が非常に重要な意義をもち、ことに延亨3年(1746)の「換糖上納」決定以後はさとうきびが主作の地位につき、奄美の社会に重大な影響をあたえた。 この時代は大島、喜界島、徳之島、沖永良部島に本仮屋(代官所)が置かれ、その下に各島の統治権が委ねられたが、地方行政区画は、おおむね琉球服属時代の制度と変わらなかった。各間切役所は仮屋もと(首都)におかれ、各方には方役所があった。 (2)明治以降戦前(昭和16年)までの行政制度の大要 明治維新の業成り明治4年に廃藩置県が実施されたが、大島は交通不便のため、しばらく藩制のまま持ち越され、ようやく明治7年の秋に至って、代官以下の役人は事務を島与人に託して引きあげた。 (3)行政分離から本土復帰時まで 昭和21年1月28日連合軍最高司令部の覚書により本土と行政分離され、21年2月2日に臨時北部南西諸島の名称が付された。 (4)本土復帰から現在まで 昭和28年12月25日、連合軍最高司令部の覚書により「奄美群島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」(条約第33号)により奄美群島が本土に復帰した。 2.奄美群島の―般概況 奄美群島は、北方は北緯28度31分、南方は北緯27度01分、東方は東経130度02分及び西方は東経128度24分の海域に飛石状に連なった島嶼からなる。 有人島には奄美大島、加計呂麻島、請島、与路島、喜界島、徳之島、沖永良部島及び与論島の8島がある。(奄美大島、加計呂麻島、請島、与路島を「大島本島」と称する。) 我が国の離島の中でも、特に本土から遠隔の地に位置し、鹿児島市から航路距離にして群島東北端の喜界島まで376km、最南端の与論島まで592kmに及んでいる。 総面積は1,230.89kFで、群島のうち最も大きい奄美大島は712.09kFで、我が国の離島のうち佐渡島に次ぐ第2位の広さを有している。 総人口は一時226,752人(昭24.12.31)を数えたが、その後の著しい人口流出に伴い総人口は135,791人(平成7年国調)となっている。 市町村数は、復帰時(昭28.12.25)1市5町14村であったが、その後の町村合併等の変遷を経て、現在1市10町3村となっている。 地形上からみると、本群島は二分され、大島本島、徳之島は主として古成層とこれを貫く火成岩からなる急峻な山陵性の地形で、海岸線は変化に富み、河川はいずれも短小急流を呈している。他の3島は琉球石灰岩、いわゆるさんご礁が広く発達し、低平な段丘状の地形で砂浜、鍾乳洞等観光的資源には恵まれている反面、河川は少なく、雨水は大部分地下に浸透している。 気候は、亜熱帯海洋性に属し、年間平均気温は摂氏21度前後、降水量は東京の約2倍で3,000mmと四季を通じて温暖多雨である。また、台風の常襲地帯としても知られている。 特産品としては、本場奄美大島紬、黒糖焼酎、農業は、基幹作物としてさとうきびや菊、ユリ等の花きがあり、近年トロピカルフルーツの栽培も行われている。 漁業は、周りを珊瑚の海に囲まれているため好漁場が多いが、規模は零細である。 大島本島と徳之島には、猛毒で知られるハブの他、天然記念物として、アマミノクロウサギやルリカケス等が棲息している。
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